罪を犯すことと禁忌を合法化することの根本的な違い

著者
Dr. Haitham Talaat
イスラーム・シャリーアにおいて、禁じられた行為を犯すことと、それが許容されると主張することの間には、根本的かつ方法論的な違いがある。この区別は信仰と不信仰の問題を理解する上での礎石であり、現代の懐疑論の波の中でムスリムが明確に認識すべきことである。
法規定を改変しようとする試みの例
近年、解釈や現代化という名目の下で、行動上の逸脱を正当化しようとする試みが見られる。例えば:
同性愛をイスラームにおいて受け入れ可能なものとして売り込もうとする試み。これは単なる罪ではなく、神が明示的に禁じたものを合法化(イスティハラール)する行為である。
ムハンマド・シャフルールのような人物による、合意の上での不義(ジナ)は特定の状況下では禁じられていないという主張。これは、イデオロギー的な欲望に合わせて宗教の姿を変える道である。
過激なフェミニズムなどの思想的傾向に反するという理由だけで、真正なハディースを拒絶すること。これは行動上の罪を、啓示に対する不信仰へと変質させる。
確立された法原則
この分野における法原則は、以下の二つの決定的な点に要約できる:
大罪(不義など)を犯しながらも、それが禁じられていることを認め、自分が間違っていると自覚している者は「罪深いムスリム」であり、その運命は神に委ねられる。神がお望みなら彼を罰し、お望みなら彼を許される。
しかし、不義や同性愛、あるいは結婚外の同居が合法で許されていると主張する者は、「合法化(イスティハラール)」に陥っている。これは神の言葉を改変し、禁じられたものを解禁する行為であり、イスラームの圏外へと去ることになる。
個人の好みに合わせて神の法を変えることと、単なる罪との違いは、不信仰と罪の違いであり、これは明示的な伝承を待つまでもなく、健全な理性が理解することである。